2018 PEPPERLAND TOPICS

主にペパーランドの年末ライブパンフレットに掲載した記事を転載しております。

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福武文化賞贈賞式 - 2018.11.16

at 岡山大学 Junko Fukutake Hall

岡山県の文化の向上に著しく貢献した個人、団体に贈られる福武文化賞。2018年度受賞者に能勢伊勢雄が決まり、岡山大学のJunko Fukutake Hallにて贈賞式が行われた。
写真・音楽・映画・美術など多岐にわたり、文化芸術領域を横断し、岡山・全国・海外を架橋したとして、また、時代の変化や社会に感応し、自らの表現や活動を専門深く耕してきた姿勢が高く評価された。
審査員満場一致の決定であったとの報告が聞かれる中、式典にはミュージシャン、アーティストをはじめ、設立当初からPEPPERLANDとゆかりの深い関係者らが県内外から駆けつけ、喜びの声が飛び交った。
受賞者の活動紹介では、限られた時間の中、50年近くにわたるアーティスト活動の一端を明らかにした。
 
 

能勢さんの大きな背中  軸原ヨウスケ(COCHAE)

福武文化賞の受賞おめでとうございます。考えられないほど地域文化に貢献されていながら、今まで表彰されていなかったことの方が不自然だと思っていたので、なんだか安心した、というのが正直な気持ちです。¶岡山に住んでいた10代後半から能勢さんの存在を知ってはいましたが、上京してからは様々な局面で能勢さんの大きな背中を見てきました。影響を受けた様々な文化の延長線上には、いつも能勢さんの足跡がありました。¶県外で知り合った多くの人に「岡山といえば能勢さん」「岡山の文化は能勢さんがいるから大丈夫」などと言われることも多く、密かに誇らしい気持ちがしていたことも告白しておきます。¶アンディ・ウォーホールの映画『Exploding Plastic Inevitable 』に映ったファクトリーを見て、ペパーランドを始めようと思った、という話が大好きで、授賞式ではその映像を目の当たりにして目頭が熱くなりました。映画や音楽で人生が変わった能勢さんが、今だに無数の人たちに映画や音楽を提供し、またそこで感動した人たちの人生が変わっていく。この文化のグルーヴ。¶そして能勢さんの言葉で最も忘れ難いのは2008年の山陽新聞のインタビューに載っていた「覚悟して孤立すると理解者が現れ、新たな共同性が生まれる。孤立を恐れず勇気を持って発言し、行動すれば、おのずから本当の関係が築かれる。」という言葉。¶岡山という地方都市で、世界の表現者とつながってきた能勢さんの全てを体現したような言葉だと思います。私自身の座右の銘としても、この言葉を忘れないよう残りの人生進んでいこうと思っています。

休まない人・能勢伊勢雄 福田淳子(岡山県天神山文化プラザ主任学芸員)

「15分間の講演というものは経験したことがないのですが…。」という前置きで始まった福武文化賞受賞記念スピーチは、能勢さんとしては異例の早さ(28分間)で、自身の体験から導き出した大切な真理を核としてその膨大な活動が見事に整理されたものだった。通常、能勢さんの講義は時間と体力が許す限り何時間でも続けられる。「無限に続く表現の変革こそがすばらしい。」(*1)という言葉が示すように、能勢さんにとっての講義は伝道の場である以上に、自身の「スペクタクル」を書き換える「今」であり、そこから何か新しいものが生まれる可能性を秘めた「ライブ」の場なのだと思う。新しい感覚や体験に対して常に開かれた状態を保ち続けることがジャンルを超えた吸引力を持つ所以だろう。¶ライブハウスPEPPERLAND主宰を務めながら年間に多数の講演や寄稿、書籍の監修、展覧会企画、作品制作発表と、その行動を挙げてゆくときりがない程、能勢さんの活動は精力的で多忙を極める。その多忙な能勢さんに「お願い」をすると、どんなに些細なことでも高い完成度で期限内に仕上げてくださるのでいつも頭が下がる。1日の平均睡眠時間は3〜4時間、若い頃は何日も寝ずに活動したという。プロフェッショナルであることに決して安住せず、妥協せず前進し続ける。ゲーテは「多くがそこから導き出せるような生産的(プレグナント)な点を見出すまで、私は休まない」と言ったが、能勢さんも自身の人生をかけてそのことを体現している。¶天神山文化プラザでは、50周年事業をはじめ、主催企画に参加・出品していただいてきた。中でも、岡山出身の彫刻家 中原浩大とのコラボレーションを実現した「アートの今・岡山2015 −dialogues:対話−」は刺激的な展示だった。その関連企画対談の中で能勢さんが語った言葉がとても印象に残っている。「僕は、確かに写真をアートの文脈で発表はしているけど、アートは消えてもいいと思っています。」(詩人の和合亮一氏が被災し奥さんと電話が繋がった瞬間に発した言葉を受けて)「僕は『和合さんが書かれた何百もの詩より<おまえ大丈夫か>の一言を乗り越えられませんよ』と言いました。(中略)言語による表現やアートの表現も含めて、そういうものが総て壊れたところに本当の詩が立ち上がってくる。」(*2)これっぽっちの嘘もない状態から踏み出す一歩が一番大切で素晴らしということ。その強くまっすぐな姿勢こそが能勢さんのスペクタクルの核を成している。そしてそれゆえに、これからも周囲の心配をよそに能勢さんは休まないのだろう。¶(*1)『一匹狼の文化人on 岡山』¶(*2)『アートの今・岡山2015 −dialogues:対話− 記録集』
 

「福武文化賞の受賞、おめでとうございます。」 伊吹圭弘(敦賀遊会主宰)

福武教育文化振興財団の2018年度の福武文化賞に「LiveHouse PEPPERLAND 主宰・写真家・美術展企画」として能勢さんが受賞し、11月16日にあったその贈呈式に参加させてもらった。¶福武文化賞のWebページによると「活躍のフィールドは、写真・音楽・映画・美術など多岐にわたり、文化芸術領域を横断し、岡山・全国・海外を架橋している。つねに時代の変化や社会の課題にビビッドに感応し、自らの表現や活動を専門深耕してきた姿勢は、高く評価される。」とある。能勢さんの活動が多岐にわたり活動の場も広いのは、能勢さんを近くに知る者には周知のところであるが、1974年にLiveHouse PEPPERLANDを作り岡山にライブ文化を根付かせてきたことを取り分け評価されるだろう。44年間、PEPPERLANDが「表現の交差する場」として提供するライブの場が日常の中に存在していたのである。1974年に生まれた人は、早ければ孫が生まれるころである。太平洋戦争終戦の44年前を思えば、20世紀になった間際であり、明治期の日露戦争前である。敗戦時を基準にすれば、与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』の前であること、「オッペケペー節」を歌っていたころを考えればどのくらいの年月か実感するのではないだろうか。¶そしてそのライブの報告は随時なされ、毎年作られるこの年末ライブのパンフレットもそのひとつである。¶このライブの場を維持するのは並大抵のことではないはずである。その証拠に、1970年代前半から続くライブハウスは数えるほどである。それら老舗のライブハウスは様々な工夫を重ねながら、続いているのだろうと思う。そして、能勢さんもLiveHouse PEPPERLANDを運営しながら、様々なことを、スタッフ、オーディエンス、パフォーマーである次世代、次次世代への継承も続けているのだろうと思う。¶¶¶「・・・そして、この“思い”は、自己完結するのではなくて、どちらかの方向に延びて行って、他者の中で完結し、他者の中で姿を見せる。“思い”とは、他者に放たれた一方的な矢であろう。店の“思い”は、ずーっと延びて行って、他人の中で完結し、その“思い”もまた、こちらへ延びて来たり、あるいは、他者に延びて行って、完結するというものだと思う。・・・」(『遊』1003 1978年10月号:能勢伊勢雄「コーヒーの香に 映像の矢を 放ちをり」)¶¶¶今回の福武哲彦教育賞受賞団体の代表の有森祐子氏の涙で詰まる活動報告のあと、能勢さんの長い活動報告が始まった。それもそのはずである。写真を習い始めた「写真家・山﨑治雄との出会い」から約60年間の活動を15分間で主な「報告」できるはずもない。後ろからせかされながらも30分と倍の時間で駆け抜けた。福武教育文化振興財団の助成に寄った山﨑治雄先生を顕彰する出版物や『写真家 山﨑治雄の仕事』(2016年 日本文教出版 岡山文庫)に取り上げられたことの紹介、「山﨑治雄 魂の記録写真」として題する記事の日本経済新聞(2017.2.15)での紹介があった。¶写真を習う過程での金坂健二、Newsreel運動との出会いから映画『共同性の地平を求めて』の製作(この映画の製作の過程で人間的に成長したという)、「写真から実験映画の関わりの中で出会った『Exploding Plastic Inevitable』(Andy Warhol)の映画のような文化領域がマッシュアップするLive House(ライトアートショーや演奏が行われる空間)を創ろうと決意」してPEPPERLANDが始まった。有森さんの話にあった、カンボジアの子供の眼の輝きが自分自身の支えになって新しい動きを作られたと言われたのと同じように、ライブハウスという言葉もなかった時期にこの映画を観たことによって創りたいと思ったという。そういうものが人間の生き方を根本から変えていくということである。¶「表現の全てが展開できるスペース」であるPEPPERLANDは音楽だけをやっているのではないと続ける。そこはあらゆる表現の行き交う場、である。そして、「音楽は次の時代を映す最も速い鏡である」であり、次の時代の感覚を連れてくる。そういうことに携われてきたということが生きるエネルギーにもなっていたという。「PEPPERLANDのステージに立った地元バンドやツアー・アーティストの数は、約10,750バンド、人数にして約3万人をくだらない。また、オーディエンスは42万人以上を数える。」と今年で44年間を概算し、「パラマーケット・スペクタクル実践の場としてLive House PEPPERLANDを運営」したと振り返った。また、岡山大学の伊奈正人先生が『サブカルチャーの社会学』(1999年 世界思想社)の7章に書くためPEPPERLANDの活動とは何なのかということを取材され、これは授業のテキストでもあり、それによりその学生がPEPPERLANDに来て話をするというような奇妙な感覚だったことを覚えていると話した。¶続いて、「松岡正剛と工作舎」についてだった。雑誌『遊』が発刊され、その編集長だった松岡さんとの交流があり、そこから名付けた「遊会」という、無料で、朝まで行う昔の寺子屋のような会を35年間、毎月続けている。そこで行う「遊学」とは、たとえば、”コト”と”モノ”の角を持った四角い紙を折り合わせてできる斜線というか対角線を語るということである(アートと社会学を折り合わせればそれにまたがる領域)と説明した。遊学として語るものを図に表したのを「遊図」と呼び、概念のコンセプチュアルアートであり、言葉で概念をつないでいく作品にしている。そして、これら遊図は、『スペクタクル能勢伊勢雄1968 - 2004』展(2004年)や『渦と記憶』展(2010年)などで展示されている。(『スペクタクル能勢伊勢雄1968 - 2004』展の開催時には、松岡さんは初めて岡山を訪れ、展示場、PEPPERLANDなど訪れた様子が展覧会の記録映画『FeedBack』の一部により紹介された。)¶「『Rock Magazine』との関わり」も活動の重要な部分である。『Rock Magazine』の編集長は阿木譲(1947-2018)氏で、その編集に能勢さんは関わった時期があり、記事原稿も書いた。『日本ロック雑誌クロニクル』(篠原章著 2004年 太田出版)においては「阿木譲全仕事カタログ」に資料やインタビューで協力している。『Rock Magazine』の内容あるいは役割は、一番新しい音楽の紹介と解説であり、音楽シーンがロックからクラブカルチャーに移行したあたりで歴史的著書である『E』(1990年)が執筆され、能勢さんも執筆している。¶「『Rock Magazine』との出会いは、スノッブな(俗物)文化の持つ豊かな可能性であった。この体験が無かったなら、おそらく高尚な音楽の世界へと道を誤っていたでしょう。」と振り返る。多くの人が聴いているのはポップスだけれど、『Rock Magazine』の関わりで、ポップスよりもアンダーグラウンドな音楽の世界で生まれる音楽を体験した。そして今も、「レディオMOMO」で1997年から22年間、毎週1時間の音楽ラジオプログラムを受け持っていることが報告された。¶反面、「高度テクノロジーがもたらす電霊世界(サイベリア)の解読」を行ってきた。高度テクノロジーは霊的になっていくという考え方を持っており、”ネットを検索すれば何でもある”というのではなく、”忘れるという権利を人間に与えられてもいいのではないか”と、インターネットの世界自体を問題にしている。インターネットの背後にある危ない側面を持っているのではないかと観る。ジーン『CYBORG試論』をまとめて『ON CYBORG』(1970年)を書き、雑誌『DIGITAL BOY』(1996年〜 毎日コミュニケーション)に連載した。¶「美術展企画と開催、実験演劇、ビデオハッキング、美學校など・・」についての活動報告もスクリーンに投影されながらなされた。¶さらに「写真家集団Phenomena育成と「美學校岡山校」」が、後進への指導としても話された。 「フトマニクシロ・ランドスケープ」展(2014年 奈義町現代美術館)、写真集『フトマニクシロ・ランドスケープ』(2017年 水声社)などが紹介され、奈義町現代美術館での「能勢伊勢雄写真展-MORPHOLOGY・遊図・PORTOGRAPHの世界-」展(2013年)、2009年から2016年まで講師を務めた「最高の講師陣を迎えて開催されるアートビオトープ那須主催のオープンカレッジ「山のシューレ」、2015年から毎年招聘されている「京都国際映画祭」、『一匹狼の文化人on岡山』(2017年)、連続講座『能勢伊勢雄大全』の状況も紹介された。¶最後に、PEPPERLAND店内の展示されているヨーゼフ・ボイス「社会彫刻」がスクリーンに投影され、「焦土の岡山を「文化」で持って再建しようとした「岡山芸能懇話会」のように、これからも「文化」による社会の彫刻を続けて行きます。」と締めくくった。
 

能勢伊勢雄の有用性についてー 福武文化賞受賞に当たって思うこと 嘉ノ海幹彦(FM DJ)

2018年度福武文化賞の贈賞式が岡山大学 Junko Fukutake Hallで行われた。¶受賞おめでとうございます。能勢さんの今までの活動や業績に対する功績が認められた。PEPPERLANDをご存じないような一般の人にも知られる機会が増えることを期待する。¶福武文化財団提供の冊子で記載されている紹介文は他の受賞者と比較しても格段に多いがそれでも一部である。今までの受賞者の業績をパラパラと見てみたが、活動の量と範囲の広さが違うのだ。¶受賞後に能勢さんがご自分の活動のごく一部分を紹介されていたがそれでも予定時間の倍を遥かに超えていた。それだけのことをされて来たのだと改めて理解した。¶¶僕は能勢さんの話を聞きながら、昔、映画評論家故淀川長治さんが講演の最後に話されたことを思い出していた。淀川さんはジャンルに関わらず日本で一番映画を見ていた人だ。所謂名作だけではなく実験映画やアンダーグラウンドも幅広く見ていた。もちろんケネス・アンガーも三流商業映画も含めてである。¶「私は映画から人生の様々なことを学んだ。映画を通じて多くの体験も経験もした。私が若い人に言いたいのは、どんどん私を利用してほしいということ。そして私からどんなことでも聞き出してほしい。何時間でも語りましょう。」と淀川さんは聴衆に語りかけた。そのまま能勢さんに当てはまると思っている。¶ジョンケージの「音楽の生活における有用性について」じゃないが、若い世代が能勢さんの経験を盗むべくどんどん能勢伊勢雄を利用してほしい。¶そして自分の感性に活かしてほしい。応用してほしい。¶そのためには、まずは能勢さんに自分の興味があることについて話しかけることである。必ず何らかの返答をくれるはずである。以上。
 

本当の智慧             犬養佳子(Rrose Selavy/Celine)

2016年6月に禁酒会館で、能勢伊勢雄さんを公開インタビューする機会をいただいた。¶幼少の頃、写真に興味を持ったことから山崎治雄(写真家)のところに遊びに行くようになった話から現在までを大きな流れにそって語っていただいたのですがその中で「私はこれまで山崎先生、松岡正剛、萩原勝という年上の優れた人ばかりに巡り合ったんですよ。それは私の運命を変えたと思います」と言われた。それぞれの人と深くかかわる。¶能勢伊勢雄さんの周りには学びたい人も含め、ペパーランドを軸にさまざまな人との交流がある。1980年から月一回のペースでやっている遊会も一人のチューターと参加したメンバーによって決めたテーマについて夜どうし学び合う、そんなことがもう40年近くも続いていたり、なにか知識という言葉だけのイメージは無味乾燥な活字だけを連想しがちだけれどそこに人が介在して、その人を通してその知識に向き合うことができたら、それはきっと生き生きと自分の中に存在感を持ち、自分が生きている時間の中だけでなくもっと人間の深いところで自然や宇宙につながるようなものとして捉えることができるのでは。¶本当の知識、智慧とはそのようにしてどこかで本能と繋がり生きることにつながるのではないかと思う。能勢伊勢雄さんを通して示される知識には何か底辺にそういう魅力がある。¶そしてそこに向き合おうとしたときその過程に注ぐ能勢伊勢雄さんの眼差しはとても人間的であたたかいと思っている。¶ご自身が先ほど名前を挙げた方々に始まり独自の視点で歩んでこられ、ご苦労もさまざまあったと思うがその足跡に惹きつけられる人はこれからも増えていくのだろうなぁと思うし、ご自身も年々忙しくなってきているとおっしゃっていたが、そのような生き方を福武文化賞 受賞という形でより多くの方に功績を知っていただくことが出来て嬉しい。心よりお祝いをお伝えしたい気持ちです。何より喜ばれていたのは慶子さんです!¶能勢伊勢雄さんとペパーランドを支えてきた慶子さん本当におめでとうございました。
 

能勢さんの福武文化賞受賞によせて 齊藤 等(岡山理科大学・アートマネージメント)

能勢さん、福武文化賞の受賞まことにおめでとうございます。¶能勢さんの活動領域のほんの一部分、「写真」「映像」「音楽・美術のディレクション」どの領域の一つのみでも十分に「岡山県の文化の向上に著しく貢献」という賞の趣旨にふさわしい受賞だと思います。¶¶それにも増して「ストリート」に時代のエッジと可能性を見出し、「ペパー」と言う「多様な文化領域がマッシュアップする空間」を開き、岡山にとらわれない多種多様な可能性を持つアーティストとオーディエンスを育てた実績は、能勢さん自身の創作活動にも増して価値ある行為だと思います。¶¶考えてみれば、「PEPPERLAND」はもとより「備前アートイヴェント」「スペクタル能勢伊勢雄 1968-2004」「X-COLOR/グラフィティ in Japan」「Phenomena」など、「古代と現代」「ストリートアートとハイアート」「創り手と担い手」が交錯する「場」は、まさに「どんなジャンルにもとらわれず、どんなジャンルにもかかわっている」を体験する場でした。¶¶振り返って、能勢伊勢雄という一個人に頼ってきた岡山における文化的な「場」作り「ヒト」作り。能勢さんが開いてきた道に甘んずる事なく如何に受け継ぎ発展させるか、「場」に育てられた者に課せれた問として向き合いたいと思います。育てていただいた1人。 齊藤 等。
 

能勢さんとペパーランド、そして私。黑瀬尚彦(⻭科医師|架空楽団Gu.)

能勢さん、この度は福武文化賞受賞、誠におめでとうございます。心よりお慶び申し上げます。能勢さんの半世紀にわたるご活躍がこの大きな賞で社会的な評価されたことは本当に嬉しく、感慨深いものであります。新聞に 「マルチな活躍」とあるように、写真、映像はもとより、音楽、アート、デザイン、評論、思想等など多岐にわたります が、私が思う能勢さんの偉業は、全国に先駆けて東京のロフトと並んで、1974年にライブハウス「ペパーランド」 を立ち上げられたことです。単に喫茶店が生演奏に解放したというのではなく、地方都市岡山からの音楽の発信、 発展の場としたのは能勢さんならではの先見力だったと思います。そしてさらに驚くべきは40数年たった今も その姿勢は継続され、瑞々しい先端音楽を受容し冷静に見据え続けていること。私はその歴史の隅っこにいられたことに感謝せずにいられません。¶「お話をしたいので店に来てもらえますか?」¶79年7月、20歳の私が結成し たばかりのバンド「架空楽団」の初ライブのフライヤーに能勢さんが興味を持って下さっての連絡でした。そのデザインは「永久博覧会」というタイトルと赤瀬川源平画の「木製のUFO」をメインに置き、「ムーンライダーズ、あがた森魚、フランクザッパ、吉田日出子、月刊ガロ、鈴木翁二、メトロポリス・・」といった名前を列挙してサブカル色満 載のアンテナを張ったものでした。能勢さんだけがこれをキャッチ。この意気投合により、翌年に架空楽団はペパーランドデビューを果たします。正月にライブ、という迷惑を快く受けて下さり、何と「お正月ライブ」は恒例となり、それから17年間も続いたのでした。それを基盤に活動を東京に移し、ムーンライダーズのOAとして日比谷野外音楽堂に出演するに至ります。架空楽団の発展は能勢ご夫妻のご理解と⻑い⻑いご支援の賜物なのです。 ¶そして出会いから40年。私は現在も音楽活動を続けています。ペパーランドで過ごした時代がなければどうなっていたことでしょう〜私の人生、ただの⻭医者で終わっていたかも。¶以上、個人的なお話になってしまいましたが、今回の受賞で能勢さんへの「感謝」の気持ちを改めて感じることが出来ました。¶「世の中で知らないことがあるって怖いことじゃと思うんよ」¶出会った頃に伺った言葉です。能勢さんのこの「知」を求めて止まない姿 勢は今も一貫しています。
 

伊勢雄さんと出会い31年、やっと知った「ペパーランドとは?」 辻睦詞(ex.詩人の血)

自分と他人、または生まれ育った環境から離れ、俯瞰して知る内外の世界の違いが何と大きなことか。新しい世界に憧れ、その魅力を紐解くために旅支度をしたはいいが、若い日の自分には何をどうしていいのか分からぬことばかり。その不安を奥深くから支え、今に至るまで数知れないヒントと勇気を与え続けてくれたのが、伊勢雄さんでした。¶今回の式典では、これまでの伊勢雄さんの活動を早送りで見ることができ、出会う前としばらく会えなかった時期の活躍を把握できたことがありがたかった。¶五感霊感で自分と異なる世界との折り目をなぞって、遊びながら軽やかに生きる。そんな楽しみを与えてくださった伊勢雄さん、受賞おめでとうございます!!
 

トークレクチャーLIVE by 能勢伊勢雄 @Junko Fukutake Hall   中武敬文(ex.詩人の血)

お招きいただきありがたくレビューさせてください。中武敬文 詩人の血のかけらです。
その日の朝、彼は「わしゃあ今日はざっくばらんに行かせてもらうで」と、パックマンのスーツで現れた。彼、辻睦詞とは、2011年末、岡本太郎美術館へ伊勢雄さんの「ゲーテ色彩について」へ一緒に行った。¶以来7年ぶりのレクチャーというか、この日は「福武文化賞」授賞式の式典でした。¶全く馴染みのない授賞式典に招かれた僕たちは、とても有意義で楽しい一日を過ごせました。¶¶60分にも満たない時間制限の中で、ある意味とてもわかりやすい「まとめ」的な能勢伊勢雄史、そしてPEPPERLAND史、知らなかったことまで全部、大枠で知ることができました。¶写真から映画へ、映画から空間へ、つまりAndy Warhol の映画『Exploding Plastic Inevitable』でのビッグバン的な出会いがとても衝撃的だったと思えます。¶¶心の奥底にいつも取り残されている「闘い」は何のためだろう? 「人はどれだけ優しくして居れるのか」という答えがなにげにかえってきます。¶伊勢雄さん、いつもありがとうございます!!
 

チカラとともに               ⻄谷勝彦(水島楽器主宰)

財団を設立されたお方はベネッセコーポレーションの当時の社⻑であり、言わずと知れたベネッセは全国区の企業である。財団は岡山ローカルの範囲に留まるものではない。そしてベネッセコーポレーションは教育と文化の振興を理念としている。この世の中で文化振興のプロはそう多くはないと思われるが、そこからの表彰である。 ¶ところで、メインカルチャーである「企業」が文化を振興するということは、かなり懐の深い営みであると言える。なぜなら文化は人も社会も破壊し得るチカラがあるからです。¶そのような活動説明を、当日、能勢さん は行なって下さったと思います。("Andy Warhol's Exploding Plastic Inevitable" や『ロックマガジン』などとの出会いが無かったなら)「高尚な音楽を聴いて悦に入っているような方向に大きく“道を踏み外していた”と思います」という解説が印象的でした。受賞おめでとうございます。
 

文化による戦後復興から  沖島聖子(Phenomena)

この度は福武文化賞受賞おめでとうございます。11月16日の授賞式に参加して、PEPPERLANDに関わる多くの方々が集い祝福ムードに包まれる会場に同席でき貴重な時間でした。¶持ち時間15分間の活動紹介で50年間を表現するのは困難、と仰っていたとおり時間の足りない中でしたが、プレゼンを通して1本の映画を契機にPEPPERLANDが誕生したことをはじめ、アートが人間を変え、実際に新しいものを生み出すことの実践を示されたと感じました。写真、映像制作、コンセプチュアルアート、松岡正剛氏の遊学等々、丸の内テラスでのレクチャー「能勢伊勢雄大全」でも詳細について語られています。¶そして岡山では戦後、山陽放送・天満屋・大原美術館・葦川会館・文化センター(現天神山文化プラザ)の代表者を中心に「岡山芸能懇話会」が結成され、空襲ですべて焼かれてなにも無くなった岡山の町で、文化によって戦後復興をしようと尽力していたことに触れられました。伊勢雄さんの活動が山﨑治雄氏に写真を学ぶことからスタートし、懇話会中心メンバーの一人山本遺太郎氏や山﨑氏との関わりを背景にライブハウスPEPPERLANDも始まっていくことに、岡山戦後復興の歴史と今との連関を感じました。山﨑先生から受け継いだ技術と精神を伊勢雄さんから学ぶPhenomenaにとっても、岡山での時間の繋がりを改めて感じ取る機会になりました。

能勢さんの福武文化賞受賞に当たって  内山貞和(Gallery   Salon de Vamhou主宰)

今年も残すところ、1ヶ月を切り、ベットの上で、今年あった事に思いを馳せていたところ、能勢さんから受賞の感想を寄稿してくれないかとの電話があり、喜んで書かせていただくことになりました。受賞祝賀会のあった11月16日は指定された時刻12時30分前に式場に到着し、神妙に式が始まるのを待っていましたら、勝山の加納容子さんがめざとく私を見つけ「能勢さんよかったわねー。私もことの外嬉しんよー。今回は誰の反対意見も出ずに満場一致で決まったんよー」と着物姿で駆け寄ってきて報告してくれました。私は福武文化賞の選考委員がどなたか全く知りませんでしたが、彼女が選考委員の一人で選考委員会での様子が解って我事の様に嬉しく思った次第です。私は日頃から能勢さんの能力や業績を高く評価していて、何故岡山の人は能勢さんの事を正当に評価しないのかを不満に思っていましたので、加納女史の報告を大変嬉しく思った次第です。私事になりますが、会の司会進行役が姪の森葉子だったので、叔父としては葉子に粗相が無ければと余計な事まで思ったのですが叔父の目の前でもおじける事もなく役目を果たしてくれて、姪の成長振りにも嬉しい一日でした。もっとも私が知らないだけで彼女は福武文化賞受賞式のレギュラー司会者だそうで、次の世代が着実に育っていることを感じました。受賞した人達のコメントがそれぞれにあった訳ですが、有森裕子さんは15分ピッタリに見事に業績を語られました。多分この方はマラソンのレース配分もこんな感じで出来る人なのでしょう?何しろ自分で自分を誉めて上げたい人ですから。その点能勢さんはぺパーランドを立ち上げた動機-点に絞ってしゃべる積もりだったのでしょうが、能勢さん特有のサービス精神をここでも発揮してしまって、とても15分に収まる様な発表内容ではなく、姪に二度も三度も「時間です」と背中をつつかれる始末で、私としては双方の気持ちが解かるものですから、ヤキモキ致しました。能勢さんの業績は写真、映像、音楽に人智学と多岐に渡っているものですから、日本の精神風土はこの道一筋で求道的な人を評価しやすい傾向があって、能勢さんのようにルネッサンス期の人が求めたトータルとしての人の高みを目指す人を評価する気風に乏しいように思います。だから能勢さんのことをある一面だけ捉えて「サブカルチャーの人」だとか「何が本職なの?」という発言になるのだと思います。日本人を稲作農耕民の末裔だとすると、忖度して集団の和を乱さない事が我身を守る最善の方策としてDNAレベルで染み付いているのだと思います。能勢さんは目の前の事象を、自分の目で見、考え、分析、編集し、自分自身を構築していってるものですから、集団の中で和を乱すことなく習性によって生きている大多数の人たちにとっては大変解かり難い存在なのかも知れません。尤も日本というレベルで考えると、栃木県那須で開講されている「山のシューレ」ではレギュラー講師ですし、京都での国際映画祭には常連だし、編集工学の松岡正剛さんや、コンセプチュアル・アートの先駆者である故・松澤宥さんの交流を通して日本国内では確実に認知されていると言っても過言ではないでしょう。かく言う私も6才から19才まで岡山の南方3丁目に住んでいたのですが、はす向かいに住んでいた詩人の永瀬清子さんのことを牛乳瓶の底のようなレンズの眼鏡を掛け焦点の定まらない眼をして、口の中で何やらブツブツ呟いている変なオバサンと思っていましたから、いくら同時代にそばに生きていても、世界観とか価値観が違えばお互いすれ違いか、解かり合えないものと思います。話は変わりますが、福武文化賞を創設した福武純子さんは私の中学校、高校の同期生です。家も南方と長泉寺で600m位の所に住んでいて、クラスは一緒になった事は無いのですが、目のクリッとした愛らしい美人で、高校の時は私は弓道部、彼女は体操ダンス部で、弓道場と体育館は隣接、弓道の稽古をサボって体育館に彼女達のレオタード姿を横目に、度々卓球ををしに行ったことが青春の思い出です。離婚をされて岡山に帰ってこられ、父上が亡くなった時に遺産を相続し、福武文化財団を創りました。西洋ではノーブレスオブリージュといってお金や地位、名誉を得た人はそれなりの社会還元をしなければならないという観念がありますが、彼女もこの様な形で社会に還元されて立派なことだと思います。難病を患って昨年残念ながら亡くなられましたが、彼女の意志を継いで二男さんが理事長になって初めての文化賞が能勢さんであった事は私にとって因縁めいています。何しろ若い理事長さんですから、独自の色を出しながら母上の意志を継いで岡山の文化の発展に寄与していただければと思います。能勢さんはこれを期に、「山陽新聞社賞」とか、「三木記念賞」とかの岡山の賞があります。チャンスが到来すれば能勢さんを支えた人達のためにも頂いて欲しいと思っています。¶最後になりましたがもう一つ重要な事を書き忘れていました。それは能勢さんの写真の師匠の山﨑治雄さんの事です。山﨑さんは今から思うと土門拳さんと並び称しても全く遜色の無い社会派の写真家ですが、この先生の業績も岡山では正当に評価されていません。旭川ダムのドキュメント写真では「開発が破壊」であることにいち早く気づき世に訴えた方だと思いますが、高度成長経済や、日本列島改造等の当時の風潮に押し流されてしまいました。しかし直弟子である能勢さんの魂の中に確実に生き残っています。能勢さんや「山﨑治雄の写真記録を保存顕彰する会」の尽力で山﨑さんの撮ったネガフィルムの一部が東京の「日本写真保存センター」に保存が決まった事は山﨑さんのアヤを取る能勢さんの功績です。岡山文庫にも山﨑治雄さんに関する本が出ていますので、岡山にもこんな偉い仕事をした人がいた事をもっと皆さんに知って欲しいと思います。能勢さんが岡山の文化に関して力を持つと、能勢さんの精神的バックボーンである山﨑さんの事も自然に浮かび上がり、再評価されるものと信じています。私も小学4年生の頃だったと思いますが西川の豊宇気神社の所に堰があり、その下流で川ガキ達が泳いでいたのですが山﨑さんがコンタックスを駆使してスナップ写真を撮っていた事が恐烈な印象を伴って思い出されます。日本人離れした風貌とスタイル、かもし出されるオーラが少年の心に強く刻印されたものと思います。ドキュメントの価値はその時点では価値が未定でも何年も経って、「ああ、そういうことだったの」という事になると思います。能勢さんとPhenomenaのメンバーが作った労作、写真集『フトマ二クシロ・ランドスケープ -建国の原像を問う-』も、評価が定まるのは30年先か50年先になるかも知れません。その時に日本の国体は一体どうなっているのでしょうか?それが一番の問題です。
 

レクチャー時の能勢

(写真提供:青地大輔・サライジュンスケ)