2010.10.25 (mon.)
PEPPER LAND - 35th. Anniversary Event #5
“古典能楽と新感覚音楽の共演”
〜出演〜
能:安田 登 (下掛宝生流ワキ方) 笛:槻宅 聡 (能楽森田流笛方)
音方:村岡 充 (Guitar) 音方:RroseSelavy/Celine (Guitar+Vocal)
and more..
2010.10.25 (月) 開演 19:30〜
前売2000円/当日2300円 (Drink代500円別)
能楽師:安田登氏と笛方の槻宅聡氏を迎え、鎌倉時代後期から室町時代初期に完成を見た能を鑑賞すると共に、ミュージシャンとのコラボレーションにより伝統芸能の能の持つ、世界の可能性と奥深さを感じていただきます。能におけるワキ方の役割はシテ方の流浪する魂を先導するものとして奏上され、極めて重要な役割を伴うものである。安田氏は下掛(しもかがり=下懸)宝生流の鏑木岑男に師事し能楽師になった。では能におけるワキ方とはどのようなものかを前もって知って戴くために松岡正剛氏が安田氏について書いた一文を転載しておこう。
【能の多くはワキの登場から始まっている。ワキが「あるところ」にさしかかっているという設定が、能の発端だ。それゆえワキはたいてい旅の途次にある。しばしば「諸国一見(いちげん)の僧」という姿をとる。そのように一人の旅人が「あるところ」(荒れた寺や井戸や名所旧跡が多い)にさしかかると、どこからともなく一人の女(男)があらわれる。これがシテである(ツレがいるときもある)。シテとワキの二人は「あるところ」をめぐって思い出話のようなものを交わすのだが、途中から話がだんだん妖しくも深刻になって、そのうちワキの旅人はこの者(シテ)がふつうの者ではないことに気がつく。女性(男)にそのことを尋ねると、自分の正体を仄めかしつつ“わが再来”を待つように言い残し、いずくともなく姿を消してしまう。旅人が我にかえると日はとっぷりと西に傾き、あたりは暗い。さるほどに先刻の者がその本来の姿をあらわして、自身の物語を語りながら舞を見せる。夢か幻かと思ううちに、ふたたび姿が消えていて、あとは夜が白んで草茫々の荒れ寺がそこにあるばかり‥‥。このように、ワキが「あるところ」で正体不明のシテと出会うというのが夢幻能の基本構造になっている。(能の)『井筒』も『野宮』も『定家』も『敦盛』も『清経』も、みんなそうなっている。このことから、まずは次のことが予想される。おそらく能にはワキにしか見えない世界があるということだろう。その見えない世界とは、一言でいえば「異界」というものだろう。そうだとすれば夢幻能のシテの大半は異界の者なのだ。異界の者とは神か仏か、死者か亡霊か、霊か鬼である。ようするに異類だ。この世の者ではない。ただし、これらの者が最初からそのような異類であったわけではない。何らかの理由があって、そうなった。どうもワキにはその事情を見分ける力があるらしい。ざっとこういうことになる。観阿弥や世阿弥はこうした「異界」との交流によって何かを伝えるためにシテを創りあげた。しかもそのシテの正体を伏せることで、さらに伝えたいものが何であるかを強調した。そのためにワキを創った。(略)ワキが異界や異類を見いだし、此岸と彼岸を結びつけ、思いを遂げられぬ者たちの思いを晴らしていくという役割を担う。(略)能は、人生の深淵を覗くとは何かということを問うたドラマなのである。そこにひそむ「負」をもって「再生」を誓うドラマなのだ。(略)こういう者たちの残念と無念を、「負」というものを、あるときワキが晴らしていく。その能を舞台のこちらの見所(けんしょ)にいる観客が見て、新たな再生を誓っていく。能とは、そのようにして発生し(略)今日まで続いたものなのだ。(『千夜千冊』1176夜)】
※ロルフィング(Rolfing®)とは、アメリカ の生化学者、アイダ・ロルフによって創始されたボディーワーク。人間の身体は結合組織のネットワーク(骨、軟骨、靭帯、腱、筋膜など)のテンセグリティーを調節し身体の偏りを調整することによってバランスを回復する。バランスのとれた身体とは重力と調和した身体である。